JR大阪駅のサウンドスケープを考える

普段から仕事でもプライベートでも頻繁に使用するし、昔から親しんで、よく知っているJR大阪駅のホームのサウンドスケープについて考えたい。

     

 

これまでの印象は、大阪駅の音環境は良くないもの、と決めつけていた。いやそれ以前に、この駅の音環境云々という発想すらなかった。

 

サウンドスケープとは「個人、あるいは社会によってどのように知覚され理解されるかに強調点の置かれた音環境で、個人とその環境との関係によって決まる」と定義される。

であるから、この大阪駅の音が心地よく大好きだという人もいて当然だし、その考えも受け入れないといけない。

 

そういう観点から、改めてJR大阪駅のホームを感じてみた。

1、2番線の大阪環状線のホームに立つ。環状線の各駅のホームでは、電車の発車時に、大阪にゆかりのある歌手のヒットメロディが発車ベル音として流れている。

因みに大阪駅は、やしきたかじんの「やっぱ好きやねん」である。これは好意的にみれば大阪的であると言えるが、私はベタ過ぎて好きにはなれない。また、この曲を知らない若い世代の人には、音の羅列としか捉えないだろう。

 

普段は、そこに存在する音を意識したことはないので、環状線のホームのある地点にしばらく立ち止まったり、端から端までゆっくり歩いて、どんな音が存在するのか注意深く聞いてみた。

人々の声、アナウンス、発車ベル、電車が接近するのを知らせる音楽、電車の走行する音。そして、今回初めて気が付いたが、聞いたこともない小鳥のさえずりのような音が聞こえてきた。以外だった。殺伐として無機質なホームに自然な音を混ぜて少しでもそこにいる人々の心を和まそうとする意図なのだろうと思う。

 

しかし、サウンドアーティストのマックス・ニューハウスは、このように言っている。

「人工的な音が悪で、自然の音が善というのは、あまりにも単純だ。都市のサウンドスケープにおける多くの音はとても面白くそして複雑だから」

確かにその通りだと思う。

 

   ↑ マックスニューハウス作品「タイムズスクエア」

     

このマックスの考えを取り入れるなら、どんな音をこの場所に置けばいいのだろうか?サウンドアート的なことを優先させるか、乗客の安全を優先したサウンドスケープを考えるのか?

 

現状は、安全第一の考えで音環境を作っているのは間違いない。

しかし、電車が近づくアナウンスがすごく聞き取りにくい。録音された音声と、リアルタイムでしゃべる拡声器からのものとが混在しているからだ。

私はこの駅は詳しいので、案内のアナウンスは必要ないが、不案内な旅行者にはとても不親切だし、このアナウンスによって情報を得ている旅行者などはいないと思う。あの拡がりのあるホームの空間には、アナウンスの音声は響きわたってとうてい聞き取れない。いっそのこと無くしてもいいのではと思う。

 

私の数少ない経験からでも、海外の列車のホームはとても静かで威厳的な印象がある。「静かなことが良くて、騒がしいのがいけないこと」とはマックスの考えに倣えば、サウンドアート的に反しているので言いたくないのだが。

では、この駅のサウンドスケープはどのようにすればいいのか?

サウンドアートを施しても大阪人は気づかないだろうし(気づかなくてもアートだが)、大阪的ではないと私は思う。

いっそ、マックス・ニューハウスがスイスのベルンの美術館の時報の案件でやったように、音を完全に消してしまう方が、そこにいる人々に何かしらの喚起を促せるのではないか?

 

騒がしかった駅のホームに訪れるいきなりの静寂。そのタイミングはいろいろあってよいと思う。電車がホームに接近するのを警告する意味であってもいいし、何の意味もなくランダムな時刻に静寂をつくるのもいい。偶然そこに居合わせた人々の耳に、小さな「何?」「なんで?」という疑問を抱かせたなら、それは有意義なサウンドスケープになると考えるからだ。