ジャズを作曲する

ジャズを作曲する

ジャズはなんと言っても、テンションコード。
テンションコードは魅力的であるが、
自分の身になり、使いこなすのは時間と経験が必要だ。

ということで、
私が実験した作曲法。

 

 既存の曲を下敷きにして曲を作っていく。

 

いろいろ私も試してきた。
コード進行をそのまま借用する方法は何度もやった。

ヒットした曲は、やはりコード進行にもオーラがあり、
メロディも生まれやすい。

他には何か方法はないか?
と考えていたら、思いついた。

 

 リズムセクションを借用する。
 ドラムパターンとベースパターンを借用したらどうか?

と思いついた。

 

当時よく聞いていた、マンハッタントランスファーの楽曲「Operator」を借用。

原曲はこんな感じです。39秒ぐらいから歌が始まります。

マンハッタントランスファーは、
夫婦二組のメンバーで(今は夫婦かどうかは知りませんが)、昔から安定したコーラスを聞かせてくれて私は大好きです。

 

このドラムとベースを、
必死で耳コピして、DAWのトラックをつくりました。

 

原曲をWAVファイルでダウンロードしてオーディオトラックに貼り付け、
そこからドラムとベースを耳コピした。

 

それを何度も何度も繰り返し聞いて、
メロディーが浮かび、コードを考え、
間奏などのアレンジをつけ加えた。

そしてできたのが次の曲です。

 「鴨川on my mind」作詞&作曲 ツカム

楽曲の良しあしは置いといて、

アイデア次第で曲は量産できるのかもしれませんね。

 

弦楽四重奏を作曲する

弦楽四重奏を作曲する

 

いよいよ大学も最終学年に10月から突入。
2020年9月の卒業に向けて、最大の難関「弦楽四重奏」の作曲に取り掛からねばならない。

まず構成は以下のようにした。

調性「ハ長調」

第1楽章 ソナタ形式 ハ長調 6/8
第2楽章 変奏曲  イ短調 4/4
第3楽章 メヌエット 3部形式
第4楽章 ロンド形式

 

各楽章の調性と拍子はまだ未定。

 

制作の過程を残すために、動画でこのブログに記録していく。

制作ソフトは「Notion6」
見やすく入力もしやすいので、これで制作していく。

 

まずは、第1楽章の出だしのスケッチ。4パートすべては書いていないが、こんな感じ。

まだまだ、修正が必要。もっと、弦カルらしいリズミカルな動きが欲しいなぁ。

完成したときに、

「ああ、最初はこんなんだったんだ」と稚拙さを感じるのが楽しみだ。(続く)

 

プーランク、作品と世界観

私の好きなプーランク

 文学者ジャン・コクトーがプロデュースしたグループ「フランス六人組」のひとりである、

 フランシス・プーランク(1899-1963)について。

 私がこの作曲家に興味があるのは、 無調の音楽が流行(トレンド)の時代にあって、調性のある美しい作品を多く残しているからだ。

 プーランクの生い立ちや環境の変化から彼の作品の背景にあるものを考察していく。その前にまず、プーランクが活躍する頃の音楽界の状況から述べていく。

 

1900年初頭の音楽界

 世紀末から第一次大戦勃発(1914年)にかけて、パリは世界に冠たる国際都市だった。

 ヨーロッパのどの都市よりも、富、文化、創造性、教育機関、展覧会、販売網、交通網が集中していた。

 そして、パリは多くの外国人芸術家を引き寄せた。イタリア、スペイン、中央ヨーロッパ、ラテン・アメリカなどから画家や未来の物書きやジャーナリスト、詩人たちが多くやってきたのである。その芸術的化学反応は目を見張るものがあった。

 例えば、ドビュッシーにとって、ベルギーのメーテルリンクやロシアのイーゴリ・ストラヴィンスキーとの出会いは世界のどこにも類を見ないパリならではの国際性なのであった。

 作品を時系列順に並べると、1901年ラベルの『水の戯れ』、1905年ドビュッシーの『映像第1集』、1913年ストラヴィンスキー『春の祭典』初演などがある。そんな音楽環境の中、プーランクは成長していくのである。

 

生い立ちと作品の背景

 フランシス・プーランクは1899年1月7日パリの第8区ソーセ広場2番地で生まれた。

 父親のエミール・プーランクはアヴェロン県の出身で、2人の兄弟と一緒に化学薬品の製造業に従事していた。母親のジェニー・ロワイエはもともとパリの出で、一家からは細工物や、青銅製品、また刺嫌などに評判の高い職人を何人も出していた。

 彼の父親はベートーヴェン、ベルリオーズ、そして セザール・フランクなど真面目な音楽を好んだ。豊かな魅力でピアノを弾いた母親は、モーツアルト、シューベルト、ショパン、そしてシューマンの愛好者だった。その双方から受け継いだものが、この作曲家を特徴づけていると考えられ、母方の叔父は演劇に熱中していた。少年時代の彼はこのような家族の中で、芸術への天性が芽生える最も好ましい環境に育った。

 5歳からピアノを母から手ほどきを受けて、10代半ばに音楽院を希望するようになる。しかし両親の方針で、まずは普通の音楽教育を受けることになった。

 ピアニストのリカルド・ビニェスに指導を仰ぐことになったのである。ビニェスは同世代の作曲家、ラヴェル、ドビュッシー、サティなどから信頼が厚く、彼らの作品の初演などを引き受けていた。

 このビニェスのピアノのレッスンはとても興味深い。音楽的なレッスンの他にかなりの時間を割いたことがある。マラルメなどの詩や文学を読み聞かせて、絵画や詩についての議論を2人で行ったのである。これに、プーランクの創造力はとても刺激されたのであろうか、作曲にも並々ならぬ才能を示し始めたのである。

 

プーランクのユーモアと皮肉の作品群

 プーランクはとても皮肉屋でユーモアにあふれ、茶目っ気があったと感じる。それが作品に大いに表れている。世俗カンタータ『仮面舞踏会』FP60には、モーツァルトやチャイコフスキー、シャブリエから引用したり、『二台のピアノのための協奏曲』FP61では、スカルラッティ、モーツアルト、シューマン、シャブリエ、ストラヴィンスキーなどを引用し、自由奔放な作品に仕立て上げた。

 世間の評価は、「プーランクのハーモニーとオーケストレーションに対するずば抜けた感覚がもたらす素晴らしい活気のおかげで、どんな堅物も魅了されてしまう」と言うものもあった。

 そして私が個人的に好きなのは『酒飲みの歌』FP31である。これは来仏したハーバード大学のグリークラブのために書き下ろされたもので、陽気に酒を飲んで声がだんだんと大きくなっていく様子が描かれていて、とても茶目っ気がある。

 

プーランクの宗教観あふれる作品群

 その一方で、プーランクは宗教曲や内政的な曲、社会の不条理を訴えるような曲も多く書いている。

 プーランクは36歳の時、カトリック教徒として回心した。敬虔なカトリック信者であった父方の故郷アヴェロンに赴いて巡礼を行い、日々内省を繰り返したのだろうか。

 他にも、知人の作曲家が自動車事故で非業の死を遂げたことや、プーランクが20代の頃に結婚を考えていた女性の突然の死など、人生や宗教や死への洞察を深めていき、はじめての宗教曲『ロカマドゥールの黒衣の聖母への連祷』FP82を書いた。

 

 1943年には、ポール・エリュアールの詩を採用したカンタータ『人間の顔』FP120を書いた。エリュアールはレジスタンスの文筆組合を組織して、反ナチスの詩を匿名で書いていた詩人である。音楽を通した社会への不条理へのメッセージである。

 そして、1950年には宗教曲『スターバト・マーテル』FP148、1956年には、オペラ『カルメル派修道女の対話』FP159を作曲し、自らの宗教観を音楽で表現していくのであった。

 

プーランクの世界観

 プーランクがとらえた世界とはどういうものだったのだろうか。すべての世界を対立したものと捉えていたのかもしれない。いや、対立するものの中に美を見出していたのかもしれない。

 例えば、スペインの作曲家、マヌエル・デ・ファリャに対して深く敬意を抱いていた。彼についてこのようにコメントしている。

 「聖女テレジアが肉体と魂の健康を得るためにカルメル派の修道女たちにギターとカスタネットに合わせて踊るよう命じたことを知っていますか。このようなコントラストの原理が理解されると、ファリャの場合も、郷土色豊かな雰囲気ばかりではなく、神秘思想が顔をのぞかせる瞬間があることがはっきりわかるはずなのです。ファリャは神秘主義者なのです。私の脳裏に残る最後の彼の姿は、ベネツィアの教会の中で我を忘れて祈りに没頭する人間、むしろスルバランの会に出てくるような僧侶の姿なのです」(「プーランクを探して」久野麗 春秋社より引用)

 

 このように、敬愛する作曲家が「コントラスト(対比)」を理解して、人物までも「郷土色豊か」でありながら、「神秘主義者の僧侶」であることを祝福しているのである。

 プーランクの面白さは、軽快さと荘厳さのコントラストだけでなく、その気質がかわるがわる作品に投影させるところだ。

 世界大戦下において自由を求めた『人間の顔』の発表の翌年には、バタバタ喜劇『ティレシアスの乳房』FP125というオペラを書く。そして、その初演の2年後には『スターバート・マーテル』FP148、翌年に「甘くけしからんワルツ」と本人が呼んだ『シテール島への船出』FP150を作曲している。

 

二面性と芸術

 このプーランクの二面性が彼の作品を魅力的にしていることは間違いない。陰と陽、光と闇、緊張と緩和。二面性の中でも「対極」という概念を持ち合わせている芸術に、私は以前から興味があり、注目してきた。私の持論に以下の様なものがある。「芸術作品の中に何らかの対極性が存在すると、より芸能的になる」

 ここで、「芸術と芸能」について考察しておく。

 これに関して、私が強烈に印象に残っているテレビ番組があった。3年程前にNHK番組の対談で、落語家の立川志の輔とミュージカル俳優の市村正親が、この違いについて論じていたのを興味深く見て記憶に鮮明に残っている。

 この二人の演者は「芸術」と「芸能」の違いを意識して舞台に立っているかという話が出た。

 「芸術」とは自己表現の究極で、作り上げた本人が「これは芸術だ」と宣言すれば、誰からも評価されなくてもそれは芸術。「芸能」はそうではなく、もっと人気を考えろ。もっとお金に変わる作品を作ろうという立場。志の輔の師匠の立川談志が言うには、「芸術」と「芸術」の間でバランスが非常に難しいんだと。

 また、作品の中の対極性は、娯楽ヒット作品の中で多く見受けられる。

 一例をあげると宮崎駿監督のジブリ作品。ほとんどがヒットしたが、そのタイトルにも対極性が多く見られる。『もののけ姫』は醜と美、『天空の城ラピュタ』は天と地、『ハウルの動く城』は動と静、『崖の上のポニョ』は対では表せないが、崖の上には金魚はいない。 もっと大衆作品まで見渡すと、中島みゆきの『地上の星』という曲もあった。

 

 芸術と芸能を対極とみなせば、芸術に内包する芸能の存在、芸能に内包する芸術の存在、これが作品をより魅力的にする要因のひとつであると私は考える。

 それがプーランクの作品の至る所に見受けられると感じた。ひとつの例として、オペラ『ティレシアスの乳房』など、芸術というよりモロに芸能、吉本新喜劇級と言っても過言ではない。

 そのことを彼はしっかり意識して作品作りをしていたのかどうかはわからないが、幼い頃の音楽体験が無意識の奥深いところに到達していたのかもしれない。それは、プーランクのこのような発言からもうかがわれる。

 

 「子供の頃から、街路に響くアコーディオン伴奏とクープランの組曲を区別なくともに愛してきた」(「プーランクは語る」ステファヌ・オーデル 筑摩書房より引用)

 

 アコーディオンは子供の頃に住んでいたパリの下町で聞いた音であり、フランソワ・クープランとは、17〜18世紀にベルサイユ宮殿礼拝堂で活動していたオルガニスト、作曲家であり、ブルジョワ階級の象徴の音楽である。

 現代で例えるならどうであろうか。街に流れるチンドン屋の音楽もコンサートホールで聴くシンフォニーもどちらも愛していたよと言う感じだろう。

 そして、プーランク自身も自分の作品が様々な側面を持っていることは認識をしていて、このように発言している。

 「わたしの音楽が複数の顔をもっていることを知りたければ、『スターバート・マーテル』にも『ティレシアスの乳房』にも、同じように完全にわたし自身が表現されていることを考えてみてほしいのです」(「プーランクを探して」久野麗 春秋社より引用)

 

 映画俳優チャールズ・チャップリンの名言に「人生はクローズアップで見れば悲劇であるが、ロングショットで見れば喜劇である」と言うものがある。

 私の大好きな名言のうちのひとつである。

 人生を悲劇的な面からと喜劇的な面から捉えて、それを音楽作品に表した作曲家プーランクと言う芸術家は人類の英知であると思う。

 

  • 参考文献

プーランクは語る」フランシス・プーランク、ステファヌ・オーデル 筑摩書房

プーランクを探して」久野麗 春秋社

フランス音楽史」今谷和徳 井上さつき 春秋社